先月の文化政策研究会においては、ボウモルのコスト病の実証的基盤の不確かさが明瞭になった点で、大変成果があった。Baumol&Bowen(1966)のデータは明らかにおかしいと思っていても、いかんせん、文系人間の自分は「数字」に自信がない。今回、第一線の労働経済学者による分析に接することができたことで、院生時代以来の宿題が漸く解決した思いである。
先日の研究会でも指摘され、議論したことだが、そうなってくると、問われるべきは、何故、そのように問題の多い理論であるにもかかわらず、ボウモルのコスト病の理論は、①当時のアメリカ社会に受け入れられ、②特に、リージョナルシアターの現場で働く人達に熱烈に受容されたのか、そして、③多くの文化政策研究者は、コスト病の存在を疑わず前提としてきているのか、ということになる。
第1の論点については、アメリカでのB&B受容の前提として、「芸術は良きもので広めなくてはならない」という、かなり楽観的な芸術観が、1960年代前半のアメリカを席巻していたということがある。また、そのような時代の空気が、アメリカにおいて、文化芸術への公的助成をおこなう全米芸術基金(NEA)の設立に寄与した、というのも、歴史的事実であることは間違いない。日本でも「モノの豊かさからココロの豊かさへ」という標語があったが、それに近い感覚が当時のアメリカにも存在していたと考えられる。
しかしそのような熱狂は、アメリカにおいてはその後、急速に終息に向かう。1970年代以降、NEAの存在意義は概ね縮小を意義なくされ、そして現在に至る。従って、アメリカにおいて、ボウモルのコスト病が公的助成の根拠とみなされていたのは、ごく短い期間の間のみである。むしろそれは、寄付のための説得的なレトリックとして、舞台芸術の現場において使用されてきた面が強い。
そこで第2の、どうして演劇の現場でB&Bが熱烈に受容されたのか、という論点となる訳だが、B&Bの論が、オーケストラでもオペラでもなく、出版当時、急速に発達しつつあったリージョナルシアター業界に、最も熱烈に受けいれられたことと、NEAの予算配分が当初、演劇ジャンルに大きく偏って手厚いものだったこととは、大いに関係がある。オケもオペラも(そして美術館も)当時は富裕層のパトロンの存在によって経営を成立させており、公的資金は不要なばかりか、政府の介入として危険視する向きがあった。当時、リージョナルシアターだけが、パトロン制度によらない不安定な財政基盤にあって、公的助成を切実に欲していた。そして、リージョナルシアターだけが、ブロードウェイの商業演劇によって長年形成されてきた「演劇はもうかるもの・採算がとれるものTheatre pays for itself」というイメージを払拭する、強力な論理を必要としていたのである(青野2009)。
実際、コスト病の論理は、助成や寄付を募るための説得的な論理としては、アメリカのリージョナルシアター業界において、非常に有効に機能した。今でもその論理は、リージョナルシアターのファンドレイジングなどの場面で、変奏されながら使われている。
そう考えると、アメリカのリージョナルシアターの演劇の現場で働く人達が、これまでボウモルのコスト病の妥当性を問題視しなかったことは、決して責められる種類のことではないだろう。現場の演劇人にとっては、ボウモルのコスト病が現実に存在しているか否かは問題ではなく、それが助成金や寄付金を獲得するのに使える便利な道具であるか否かが、当面の問題だからだ。それに加えて、コスト病の論理には、「舞台芸術は非常に手間のかかる手仕事中心の産業だ」といったような、演劇人にとっては、非常に実感的に理解でき、共感できるステートメントが多分に含まれている。細かい数字はわからなくても、「プリンストン大学教授による科学的・実証的研究」ということで信じてしまったということも考えられる。
そうなってくると、最後に残るのが第3の論点だが、どうして文化政策の研究者たちは、ボウモルのコスト病の存在をこれまで疑わなかったのだろうか。ちゃんとした検証を怠ってきたことの弊害は、少なくとも、現在に至っては大きくなっているのではないか。仮にそれを「古典」とみなすのであれば、批判的検討を経るべきであるのもそうだが、しかし話は、そういった学問的手続きの問題に留まらない。ボウモルのコスト病の研究者による未検証という問題は、文化政策という研究分野が暗黙のうちに前提としているバイアスをも、照らし出してくれているように思われる。
即ち、文化政策の研究者が、ボウモルのコスト病の妥当性をこれまであまり問題視してこなかったのは、アメリカのリージョナルシアターに携わる演劇人と同様に、文化政策の研究者の多くが、「芸術文化への公的助成を是とする」という、暗黙の了解に、そもそも立ってきたからではないだろうか。
譬えが悪いかもしれないが、昨今の例では、原発を推進することと原発の研究がイコールになってしまっている状況と、基本的に同じである。芸術文化への公的助成が悪い、といっているのではない。現場の窮状を考えれば、上で述べたように、現場の実践家がどんな理由であっても助成が欲しいと思い、あらゆる手段を尽くしてそれを獲りにゆくというのは当然だろう。しかし、文化政策の研究者が、その現場の論理にのみ込まれて、知らぬ間に、公的助成を是とすることを無前提に認めたかのような立場で研究を行ってきてはいないだろうか。改めて、自戒したいところだ。
実践と深く結びついた学問である文化政策という分野を研究する限り、この問題はついて回る問題であるのは確かであろう。実際自分も、現場の実情について深く知れば知るほど、個人的な勝手な思い入れも含め、客観的になり切れない部分があるのも確かである。加えて、現場でNPOやアート関係の業に携わっている人達は、私としても人間として共感するところが多い。応援したくなるという気持ちは、私の中にも常にある。
研究者はしかし、単なる「応援団」ではいけない。「応援団」の少なさが問題なのではない。一昔に比べたら「応援団」は格段と多くなっている。にも関わらず、問題が山積し事態は一向に改善していない、という現状が問題なのではないだろうか。研究者の立場のあり方についても、文化政策研究会では今後、議論を進めてゆきたいと考えている。
先日の研究会でも指摘され、議論したことだが、そうなってくると、問われるべきは、何故、そのように問題の多い理論であるにもかかわらず、ボウモルのコスト病の理論は、①当時のアメリカ社会に受け入れられ、②特に、リージョナルシアターの現場で働く人達に熱烈に受容されたのか、そして、③多くの文化政策研究者は、コスト病の存在を疑わず前提としてきているのか、ということになる。
第1の論点については、アメリカでのB&B受容の前提として、「芸術は良きもので広めなくてはならない」という、かなり楽観的な芸術観が、1960年代前半のアメリカを席巻していたということがある。また、そのような時代の空気が、アメリカにおいて、文化芸術への公的助成をおこなう全米芸術基金(NEA)の設立に寄与した、というのも、歴史的事実であることは間違いない。日本でも「モノの豊かさからココロの豊かさへ」という標語があったが、それに近い感覚が当時のアメリカにも存在していたと考えられる。
しかしそのような熱狂は、アメリカにおいてはその後、急速に終息に向かう。1970年代以降、NEAの存在意義は概ね縮小を意義なくされ、そして現在に至る。従って、アメリカにおいて、ボウモルのコスト病が公的助成の根拠とみなされていたのは、ごく短い期間の間のみである。むしろそれは、寄付のための説得的なレトリックとして、舞台芸術の現場において使用されてきた面が強い。
そこで第2の、どうして演劇の現場でB&Bが熱烈に受容されたのか、という論点となる訳だが、B&Bの論が、オーケストラでもオペラでもなく、出版当時、急速に発達しつつあったリージョナルシアター業界に、最も熱烈に受けいれられたことと、NEAの予算配分が当初、演劇ジャンルに大きく偏って手厚いものだったこととは、大いに関係がある。オケもオペラも(そして美術館も)当時は富裕層のパトロンの存在によって経営を成立させており、公的資金は不要なばかりか、政府の介入として危険視する向きがあった。当時、リージョナルシアターだけが、パトロン制度によらない不安定な財政基盤にあって、公的助成を切実に欲していた。そして、リージョナルシアターだけが、ブロードウェイの商業演劇によって長年形成されてきた「演劇はもうかるもの・採算がとれるものTheatre pays for itself」というイメージを払拭する、強力な論理を必要としていたのである(青野2009)。
実際、コスト病の論理は、助成や寄付を募るための説得的な論理としては、アメリカのリージョナルシアター業界において、非常に有効に機能した。今でもその論理は、リージョナルシアターのファンドレイジングなどの場面で、変奏されながら使われている。
そう考えると、アメリカのリージョナルシアターの演劇の現場で働く人達が、これまでボウモルのコスト病の妥当性を問題視しなかったことは、決して責められる種類のことではないだろう。現場の演劇人にとっては、ボウモルのコスト病が現実に存在しているか否かは問題ではなく、それが助成金や寄付金を獲得するのに使える便利な道具であるか否かが、当面の問題だからだ。それに加えて、コスト病の論理には、「舞台芸術は非常に手間のかかる手仕事中心の産業だ」といったような、演劇人にとっては、非常に実感的に理解でき、共感できるステートメントが多分に含まれている。細かい数字はわからなくても、「プリンストン大学教授による科学的・実証的研究」ということで信じてしまったということも考えられる。
そうなってくると、最後に残るのが第3の論点だが、どうして文化政策の研究者たちは、ボウモルのコスト病の存在をこれまで疑わなかったのだろうか。ちゃんとした検証を怠ってきたことの弊害は、少なくとも、現在に至っては大きくなっているのではないか。仮にそれを「古典」とみなすのであれば、批判的検討を経るべきであるのもそうだが、しかし話は、そういった学問的手続きの問題に留まらない。ボウモルのコスト病の研究者による未検証という問題は、文化政策という研究分野が暗黙のうちに前提としているバイアスをも、照らし出してくれているように思われる。
即ち、文化政策の研究者が、ボウモルのコスト病の妥当性をこれまであまり問題視してこなかったのは、アメリカのリージョナルシアターに携わる演劇人と同様に、文化政策の研究者の多くが、「芸術文化への公的助成を是とする」という、暗黙の了解に、そもそも立ってきたからではないだろうか。
譬えが悪いかもしれないが、昨今の例では、原発を推進することと原発の研究がイコールになってしまっている状況と、基本的に同じである。芸術文化への公的助成が悪い、といっているのではない。現場の窮状を考えれば、上で述べたように、現場の実践家がどんな理由であっても助成が欲しいと思い、あらゆる手段を尽くしてそれを獲りにゆくというのは当然だろう。しかし、文化政策の研究者が、その現場の論理にのみ込まれて、知らぬ間に、公的助成を是とすることを無前提に認めたかのような立場で研究を行ってきてはいないだろうか。改めて、自戒したいところだ。
実践と深く結びついた学問である文化政策という分野を研究する限り、この問題はついて回る問題であるのは確かであろう。実際自分も、現場の実情について深く知れば知るほど、個人的な勝手な思い入れも含め、客観的になり切れない部分があるのも確かである。加えて、現場でNPOやアート関係の業に携わっている人達は、私としても人間として共感するところが多い。応援したくなるという気持ちは、私の中にも常にある。
研究者はしかし、単なる「応援団」ではいけない。「応援団」の少なさが問題なのではない。一昔に比べたら「応援団」は格段と多くなっている。にも関わらず、問題が山積し事態は一向に改善していない、という現状が問題なのではないだろうか。研究者の立場のあり方についても、文化政策研究会では今後、議論を進めてゆきたいと考えている。
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